罪状は白紙、けれど死刑宣告、冤罪にはあらず


「…!」
 みっともない声を上げそうになって、口元を抑える。
 もしかして…、そう。仮定の話だけれど、現実に耐えきれなくて、僕は成歩堂が失脚して兄が助かる妄想に取り憑かれてしまったのか…?
 思索の中で動けなくなった響也を即すように、携帯が鳴る。名前を確認するまでもなく、聞こえて来たのは成歩堂の声だった。

『ごめん、言うべきじゃなかった。』

 しょんぼりとした声。響也は努めて声を明るくする。成歩堂が悪い訳じゃない、只自分が弱いだけだ。今も、きっとニットの彼と向き合った時も。

「そんな事ないよ。おかしな事を言い出したのは僕の方じゃないか。成歩堂さんが謝るべきじゃない。思うんだけど、きっと僕が…『君は嘘なんかついてないよ。』」
 成歩堂の声に真摯さが増す。言葉を噛み締めるように、ゆっくりと告げる。
『僕にはわかるんだ。君が、どうして僕の知ってる響也くんじゃないのかわからないけど、真実を話してる。それは、本当だ。自分を疑っちゃいけないよ?』
「成歩堂…さ」
『悪夢みたいなものかもしれないけど、きっと醒めるはずだか…うわ!? 御剣!!』

 まだ、こんなところをウロついているのか。もう警察を呼んでも良い頃合いだな。それとも、盛りのついた犬は保健所が相応しいか!?
 そんな、人を野良犬みたいに…っ。わぁぁぁぁ!!
 
 携帯から聞こえるやり取りと成歩堂の叫び声に、響也は慌てて上着を羽織る。そのまま部屋を飛び出した。
 エレベーターが上がって来るのを待てそうもなくて、階段へ向かおうとした響也の前で、それは開く。

 あれ? 僕、押したっけ…? 

 不審に思ったが、誰かに押されていたのだろうと中に乗り込んだ。正面玄関に繋がる階のボタンを押し、動き出したエレベーターの動きに覚えがある。
 細かな振動のようなもの。そのまま続く目眩と少しの吐き気。
 そうして開いた扉の前には、パーカーを着た成歩堂が立っていた。両手をポケットに突っ込んで、扉が開くのを待っていたようで、響也の姿を眼にすると口端上げた。

「やぁ。」
「………成、歩堂さん」
「窓に姿が写っていないようだったから、降りて来てくれたんじゃないかと思ってね。」
 口端を上げて、にこりと笑う。それは、響也の見慣れた成歩堂の姿だった。
「成歩堂さんが立ってるの見えたから。」
「そう、仕事終わった?」
 瞼を落とす仕草は、躊躇いを感じさせる。響也は黙ったまま、成歩堂を見つめた。
気怠い雰囲気は常なる彼のものだった。けれど、その姿は先程まで一緒だった成歩堂と重なる。嬉しそうに自分を見てくれた彼は、同じはずだ。

「仕事が終わってなくたって、アンタに会いたい。」

 素直に告げた響也に、成歩堂が息を飲むのが見えた。そして、柔らかな笑みを顔全体に浮かべる。ふんわりとした笑顔。

「嬉しいよ、響也くん。ありがとう。」
 
 皮肉めいた台詞も、揶揄する態度も、今の成歩堂からは見られない。ひょっとしたら、初めて見たのかもしれない成歩堂の表情に見惚れていれば、同じように響也に視線を向けていた成歩堂の眉間に皺が寄った。
 緩んでいた唇がぎゅっと引き締まる。

「来るんだ。」

 いきなり手首を掴まれ、さっき降りたエレベーターに連れ込まれた。早急な仕草で、扉は閉められ、響也のオフィスがある階のボタンが押される。
 態度を豹変させた成歩堂を理解する事が出来ず、響也は苦情を告げながら成歩堂を睨む。そこにあったのは、さっきまでの柔らかな瞳ではなかった。鋭い光を湛えた黒い瞳。口端は上がったままだけれど、怒っている事だけは確からしかった。
 それでも、響也には成歩堂の怒りの矛先がわからない。
「一体、どうした…!」
 理由を問いただそう視線を泳がせた響也は、空間演出の為に張り巡らされた鏡に写った己の姿に絶句し、そして理解した。
 大きく開いた胸元にいっそ鮮やかな朱が散っている。それは、さっきつけれらたとわかるほどに、瑞々しい色を保っていた。
「いや、だって、これはさっきアンタが…。」
「僕がどうかしたかい? 今来たところだろ?」
 完全に拗ねたような意地の悪い表情になった成歩堂に、響也は慌てた。
浮気でもしていた後ろめたさで、成歩堂に媚びを売ったと取られたはずだ。そうじゃない。受け入れても良いと思っているのは、成歩堂だけで、実際相手は成歩堂だった。自分をこんなにも夢中にさせてしまうのは、成歩堂龍一という男だけなのだ。
 尤も、目の前の成歩堂が信じてくれるのかはわからないけれど。

「待ってよ、信じられないかもしれないけど、お願いだから僕の話を聞いて。これは…」
「これ…? 何の事だい?」
 にやりと底意地の悪い笑みを浮かべた成歩堂に背筋が凍る。途端、ズキズキと腰痛の感覚まで戻ってきて、響也は脅えた表情でぶるぶると首を横に振った。
「無理…も、無理だって…。」 
しかし成歩堂はしれっとした表情のまま響也に顔を近付けた。
「何がどう無理なのか、教えて欲しいね。」
 にっこりと、けれども響也の顔を蒼白にするだけの威力を持った表情で笑い、成歩堂は素早く唇を合わせてくる。
「…ぁ、成歩堂、さ…。」
 吐息を重ねる合間に、懇願に似た響きで名を呼ぶ。さっき同じ男の手で、高められている身体に熱が籠もる事など容易いものだ。開放を望む身体を成歩堂に摺り寄せれば、淫靡な笑みをその顔に浮かべる。

「響也くんが可愛いから仕方ない。」

 彼の言葉は、響也に既視感と軽い目眩をもたらした。
 この不可解な出来事は、響也にとって何ひとつ理解出来るものは無かったけれど、たったひとつ胸の中に刻む事が出来た。

 なんであろうとも、成歩堂龍一を好きなのだという事実だけは。


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